モンゴル帝国から日本を見た場合、島国でユーラシア大陸から離れていたので、モンゴル帝国は日本を必要ないと判断した。なぜならモンゴル帝国は、海の船の航行が得意ではなかった。朝鮮半島を足がかりにした。南宋に船を作るための木材や黒色火薬の原料である硫黄を日本が輸出していた。モンゴル帝国はそれら及び金銀が欲しかった。モンゴル帝国は世界経営のモデルを世界に提示した。商業の重視の経営である。     1274年の文永の役では2万6,000人の兵を向けた。一日で撤退したのは、その後南宋を手にいれるためだった。南宋を手に入れたあとのモンゴル帝国は1281年の弘安の役では14万人の兵を送ったが、またもや撤退した。台風のおかげではなかった。神風は吹かなかった。公明創価カルトの原因である。モンゴル帝国は国書を鎌倉幕府の時宗に送った。「我々はすべての国を一つの家と考えている。このことがわからないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。」あまりにも今の一帯一路に対する日本の動きに似ている。中国は、世界一の経済大国となったモンゴル帝国を真似ている。ルネサンスも、キリスト教の最後の晩餐を中心であった。しかし米中対立の世界は新しいマルクスレーニンフロイトカントの文明とキリストムハンマドの文明及び日本の文明を合体させる。食べられれば国家社会の社会保障は成立するので、食糧クーポン制度が出来上がる。国家の新しい形である。